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ウズベキスタン共和国 Republic of Uzbekistan
01
ウズベキスタン流挨拶
ウズベキスタンの習慣では、男性は挨拶する時に握手をし、女性は頭を少し下げながら右手を胸に当てます。
男性も握手の後、右手を胸に当てて少しお辞儀をするのが、更なる敬意を表す意味になります。
このとき、お互いの健康状態や仕事、家族の事を尋ね合ったりします。
挨拶は「Accaлoму aлайку.(アッサローム・アレイクム=こんにちは)」
「あなたの元に平和があるように」という意味のイスラーム共通のあいさつ。
2015年 11月
02
双子の名前は決まっている
ウズベキスタンでは、双子が生まれたら、
男の子の場合はハサン・フサン、
女の子の場合はファティマ・ズフラと名づけられます。
男女だったら、どちらが上かによって、ハサン・ズフラ、ファティマ・フサンとなるそうです。
もし3番目の子がいたら、男の子ならトーヒル、女の子ならザフローとなります。
男の子の双子が生まれたあと、3人目の子どもが男の子だったとき、その子にもトーヒル君と名づけます。
では、双子が続けて生まれた場合には??
それもまた同じ名前をつけるそうです。
もともとはウズベキスタン地に広がっていたゾロアスター教の教えからきているそうです。
ゾロアスター教はウズベキスタンで信じられていたイスラム教の前の宗教です。
元々ペルシャ人がつけていた名前ですが、15世紀にナボイという作家が自分の小説に使っていたため、ウズベキスタンのみならず、全中央アジアや中東の国々でもつけられるようになったと言われています。
2015年 11月
03
海まで長い道のり
ウズベキスタンには海がなく、隣接する国も全て海がない内陸国です。
ウズベキスタンに隣接する国は、カザフスタン、キルギス、アフガニスタン、タジキスタン、トルクメニスタンの5カ国で、アフガニスタン以外は全て旧ソビエト連邦の国です。
ちなみに「~スタン」とはペルシャ語で「~の国(土地)」という意味です。
ウズベキスタンは世界に2つしかない二重内陸国で、もう1カ国はリヒテンシュタイン公国です。
二重内陸国とは、隣接する国が全て内陸国で、陸路で海に出るためには、2カ国の国境を超えないといけない国のことをいいます。
2015年 11月
04
右ハンドル車は法律違反
日本と違って 車は右側通行です。
ウズベキスタンでは、日本と同じ右ハンドル車は法律で禁止されています。
日本車を輸出してもそのままでは乗れません。
2015年 11月
05
小中一貫教育
ウズベキスタンの小学校は4年まで、中等教育が5年間で、計9年間が義務教育です。
そのあと、3年間の高等教育に進みます。
ウズベキスタンでは小学校と中学校が同じ場所にあることが殆どで、小中と一貫教育が行われています。
2015年 11月
06
家具付きのアパートは常識
ウズベキス タンでは家を借りるとき、家主が家具を用意することになっています。
一般的には家主に必要なものを伝えて、揃えてもらいます。
家主と一緒に家具を買いに行くこともあります。
2015年 11月
07
多くの日本人墓地
首都タシュケントをはじめ、ウズベキスタン各地に日本人の墓地があり、多くの日本人が眠っています。
これらの墓地は、第二次世界大変終結前後に旧満州でソ連により抑留され強制連行された旧日本軍の捕虜の墓地です。
抑留された捕虜の総数は、60万人。
捕虜たちはシベリアやモンゴルだけでなく、ウズベキスタンやカザフスタンなどの中央アジアにも送り込まれました。
ウズベキスタンには約2万5千人の日本人が移送され、運河や炭鉱などの建設、発電所、学校などの公共施設の建築などの強制労働につきました。
過酷な気候条件と厳しい収容所生活の中、栄養失調や病気、事故などで倒れ、800名以上の日本人がこの地で還らぬ人となったのです。
日本人抑留者が建設した建物の一つが、タシュケントにある国立ナポイ劇場です。
煉瓦造りの3階建てて観客席1,400人を誇る立派な劇場ですが、約500人の日本人抑留者が2年がかりで煉瓦の製造から館内の装飾、彫刻まで行ったと言われています。
1966年に大地震が起き、タシュケント市内の多くの建造物が倒壊しましたが、この劇場だけは殆ど無傷でした。
ウズベキスタンの人からは、「日本人は建築技術が高い。日本人が造った建物は丈夫だ」と高く評価されました。
過酷な捕虜の境遇にあっても勤勉に働いた日本人抑留者は、当時の地元民に敬意を表されたそうです。
1991年に旧ソ連から独立して新国家建設を進めるウズベキスタンは、カリモフ大統領を筆頭に、日本の明治維新や戦争復興をモデルとして、”日本に見習え”を合言葉にしています。
2015年 11月
08
ウズベキスタンの人はその篤いもてなしで知られており、喜んで家に客を招いてくれます。
ウズベキスタン人の家に招かれたら、たくさんの飲み物と一緒に、過度に気前のよいご馳走を振舞われます。
その家庭で出せるだけのご馳走が出されますが、これは大抵多すぎるのですが、客に非常に敬意を払っている印なのです。
出されたもの全てを食べる必要はありません。
というのも皿は空になっていてはいけない、振舞われる食べ物が足りなくてはいけないという慣習があるからです。
2015年 11月
ウズベキスタン流もてなし
09
ウズベキスタンの女性達は、オスマという草を絞って、眉用に天然のトリートメント&カラーを作ります。
液状のオスマを眉毛に塗り、乾いたら洗い流します。
両眉がつながっている位に濃い化粧がウズベク美人流。
また、黒く豊かな髪は美しい女性の条件です。
未婚の女性は腰まである長い髪を何本もの細い三つ編みにします。
年配女性はスカーフをして髪を隠します。
昔は髪を切ると不幸になると言われていました。
2015年 11月
両眉がつながっているのがウズベキスタン流おしゃれ
09
クイナックはウズベキスタンの民族衣装で、腰までのワンピースにイシタンと呼ばれる裾幅の広いズボンの組み合わせです。
今でも普段着にも外出用にも着用されます。
アトラス絣と呼ばれる布で作ったクイナックは幸せになると言われています。
その発祥は有名な伝説にもなっています。
美しい娘が領主に見初められ、ハレムに連れて行かれてしまい、父親が娘を返してほしいと訴えました。
父親が織物職人であるのを知った領主は「この世にないほどの美しい布を織ってきたら娘を返す」と言いました。
父親が途方に暮れて歩いていると、夕日にきらめく川浪を見て、その模様を織って領主に届けました。
領主はとても喜び、褒め、娘にもこの布で作ったクイナックを着せて、第一夫人にしました。
そして、娘はとても幸せになったと言われています。
2015年 11月
ウズベキスタン流民族衣装
10
ウズベキスタン流結婚式
【相手探し】
男子が青年に達すると、親は息子に最も合う女性を探し始めます。
女性探しプロセスには、親しい親戚、友達と隣人も参加します。
女性を探して、親とおばさん達は女性の家に行き、青年に合うか合わないか家族生活などを判断します。
合うと判断すると、女性の両親の元へ仲人を送ります。
【ホトハ・トゥイ(婚約日)】
ウズベキスタンには結婚式前にホトハ・トゥイという儀式があります。
仲人は婚約日を決定し、その日女性の家に女友達、親戚とマハリャ(隣人のコミュニティー)の代表のお爺さん達が集まります。
仲人は女性の家訪問目的を述べた後、ノヌ・シンドリシュと言う儀式が始まり、この時点から若い2人は婚約されたと考えられています。
最後に仲人は結婚式の日付を決定します。
仲人の皆さんに、女性の親は2個のレピョーシカと菓子を中にいれたダストルハンを配り、将来の花婿と彼の親にプレゼントを渡します。
【トゥイ(結婚式)】
結婚式では、花嫁は自宅から花婿の家に向かって行くのが慣わしです。
結婚式の日には両家の家では結婚プロフが行われ、夫々のプロフを交換する儀式があります。
結婚式の日に2人のためにイマームは「ホゥトバイ・ニコフ」という特別な結婚の祈りを捧げ、2人は神様の前で既婚のカップルになります。
その後2人は戸籍登録課に行き届けを出し、法的に認められた夫婦となるのです。
結婚式の日に花婿は親友の同行で、花嫁を連れて行くために彼女の家に向かいます。
親の家を出る前に花嫁は親との別れの儀式を行い、彼女の女友達は歌いながら花婿の家まで同行します。
花婿の家に着くと結婚式が始まります。
祝賀会が終了すると、花婿は花嫁を新婚の2人のために用意された部屋へ連れて行きます。
花嫁は1人で部屋に入り、ヤンギャ(彼女に最も親しい既婚の女性の親戚)が着替えを手伝います。
着替えが終わると、ヤンギャは花嫁を部屋にかかるカーテン(グシャンガ)の後ろに隠し、花婿を待ちます。
親友の同伴で花婿は現れ、カーテンに向かいます。
花嫁と出会うためにお金を渡し、花嫁と花婿は2人っきりになれます。
ヤンギャは付きっきりで2人を見守り、両家の親に報告をする役目もあります。
次の早朝に「ケリン・サローム」(花嫁の挨拶)と言う儀式が行われます。
式が始まる前に、家の庭には花婿の親、親戚、隣人と知り合いが集まり、順番に花嫁に近付いて、プレゼントを渡し、新婚者の幸福を祈ります。
花嫁は全員に挨拶と頭を下げて3回のお辞儀をし、結婚式は終了。
家族生活が始まり、40日間を2人のために用意された部屋で暮らします。
その間、花嫁は花婿側に用意された伝統的な何着もの衣装で着飾ります。
2015年 11月